鮮血に染まる戸隠・鏡池 [2000117日(火)]

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 短い周期でころころと天気が変わるため、毎日天気予報とにらめっこ状態だったが、7日は晴れるとの予報をあてにして、7日の午前12時過ぎに東京を出発。一路信州戸隠高原を目指した。

 なぜに戸隠?といぶかる向きもあるかもしれないが、特別な理由があるわけではない。しいて言えば、山岳信仰である修験道の聖地となるような場所は、雄大で美しい自然が残されていることが多く、まえまえから行ってみたいと思っていた。

 それにしても、まさかあんな事件に巻き込まれることになろうとは、想像もしていなかった。

 貧乏旅行が身にしみついていることもあり、相変わらず一般道ひた走りで長野に着いたのは午前5時。ここから戸隠高原までさらに山を登っていくため、あまりのんびり休憩しているひまは無い。セブンイレブンで朝食を買って、先を急ぐ。オリンピック用に整備したのか、りっぱなループ橋がついた道をひたすら登りつづけて、やっと戸隠神社の宝光社前に到着した。宝光社の少し手前の細い道を左折し、さらに山道を登って行くと鏡池がある。その名のとおり鏡のように戸隠山の雄大な姿を映しこむ美しい池だということで、今回の目当てのひとつだ。

 暗い山道を登り、540分になろうかと言う頃だった。少し東の空が白みかけてきたので、僕は先を急いでいた。朝日に染まる戸隠とそれを映しこむ鏡池の美しい景色を想像していた。「早めに着いてロケハンしとかないとなあ」などと考えていたときだった。

 真っ暗な林の中の道を照らし出すライトの明かりの中に、突然髪を振り乱し、両手を上げてこちらに走り寄ってくる人影が飛び込んできた。さすがにギョッとした。一瞬体が凍りつくような感覚を覚えながら、それでも右足はブレーキペダルを踏んでいた。

 完全に停止した車の前に走りよってきた人影は、どうやら若い女性のようだ。足を引きずるようにして彼女は運転席の横にやってきた。窓を開くべきかどうか躊躇したが、とりあえず少し窓を開けて、「どうしたんですか?」と聞いた。

 彼女は震える声で一気にしゃべり出した。「男の人に連れてこられて、ナイフで手を切られたんです。」そう言いながら左手の傷口を目の前に差し出した。左手の甲、親指の付け根が長さ4cm程度ざっくりと切られていた。傷の深さは1cm近くもあっただろうか。すでに血はとまっているのか出血は無く、妙になまなましい切り口が覗いていた。

 僕は言葉に詰まった。もともと健康診断の血液検査で注射器にたまった血を見ただけでも気持ち悪くなるぐらい、血とか傷とかは苦手なほうだ。しかし、いつまでも呆然としているわけには行かない。よく見れば彼女は、枯れ葉にまみれ、服装もかなり乱れている。乱暴されたという感じではないが、すくなからず暴行を受けたようにも見える。

 「とにかく乗って」とリアシートに乗るように促すと、彼女は飛び込むように乗りこんだ。鏡池の駐車場はもうすぐ先にあるはず。そこまで行って、警察に連絡しよう。そう思いながら車を走らせた。

 駐車場にはすでに先客が3人ほどいた。まずは、車を降りて彼女の状況を確認した。足にもあちこち擦り傷や切り傷があり、血が流れていた。多少動揺していた僕は、自分の携帯電話がどこにあるのかわからなくなって、駐車場にいた人に簡単に事情を説明して携帯電話を持っていないかどうかたずねた。しかし、あいにく誰ももっていなかった。公衆電話を探してみたが、見当たらない。「待て待て。自分の携帯はどこかにあるはずだ。」

 助手席に重ねてあった地図や日帰り温泉ガイドブックなどをめくると、その下から携帯電話が出てきた。なんとなく思い通りに動かない指で110をコールする。

 「110番です。どうされましたか?」落ち着いた声で応答があった。「今、戸隠の鏡池というところにいるんですが、男に連れてこられてナイフで手を切られて怪我をした女性を保護しました。」「戸隠の鏡池ですか? 森林公園の中ですか?」「えーっと、森林公園のはずれになると思います。どんぐりハウスっていう建物の前の駐車場です。」「鏡池の前のどんぐりハウスの前ですね。」「はい」「女性は何名ですか?」「一人です」「どういう状態ですか?」「えーと、左手の親指の付け根をナイフで4−5cm切られていて、相当出血したようです。足にもかなり擦り傷などがあります。」「意識はありますか?」「意識はしっかりしてます」「女性の名前や出身はわかりますか」「聞いてみます」…

 こうしたやり取りがしばらく続いたあと、救急車と警察がこちらに急行してくれることとなった。そうはいっても長野市内からだと40分はかかりそうだ。その間に彼女の容態が急変でもしたら手の施しようが無い。

 とりあえず、持っていたタオルを渡して傷口を保護するようにいい、体調をたずねた。彼女は頭痛と寒気がするといった。山中で恐怖の一夜を過ごしたであろうことを考えれば、それも当然だ。車の暖房を26℃にセットし、コートを彼女にかけてあげた。体が暖まるものでもとおもって、周辺に自動販売機が無いか捜してみたが、みごとに何もないところだった。仕方が無いので、飲みかけではあったが、まだ暖かいレモネードを彼女に渡した。

 「荷物とかはどうしたの?」と聞いてみると、男に林の中に捨てられたという。車の中の重苦しく緊迫した空気が堪えられないので、「それじゃあ、ちょっとそのあたりを捜してみるから」といって、車の外に出た。

 あたりはかなり明るくなっていた。彼女を車に乗せたあたりまで引き返しながら道の脇の白樺林を捜してみたが、何も見当たらなかった。

 駐車場まで引き返して、今度は少し先のほうへ行ってみた。20mぐらい行ったところで、アスファルトの上に赤いものが見えた。血溜まりだった。しかも、血塗られた手形まで残されている。あたりにはまるでわざとばら撒いたかのように鮮血が飛び散っていた。そこから駐車場まで、誰かが血であふれたバケツを走って運んだかのように、血飛沫が続いており、駐車場は鮮血のシャワーを振りまいたかのような状態だった。

 ゾッとした。ナイフを持った狂気の男に腕を切られ、血を滴らせながら逃げ回る彼女の姿が見えたような気がした。「なんてことだ。」その時になって、初めてこの異常な事態が現実のものとして迫ってきた感じがした。

 そのとき、車の下の黒いものが目についた。近づいてみると、それは黒い皮製のナイフのさやだった。刃渡り10cmぐらいありそうだ。そのさやにも赤い血がべっとりとついていた。

 「犯人の遺留品だな。」すぐにそう直感したので、このまま警察がくるまでおいておくことにした。幸い車の下になっているため、誤って蹴っ飛ばしたり、誰かが拾う心配は無い。

 「ざっと捜してみたけど、荷物らしきものは見当たらなかった。警察がきたら捜してもらうように言っておくから。」そう彼女に声をかけた。なんとなく手持ち無沙汰で車のそばでぶらぶらしていたら、先客の一人が駐車場に戻ってきた。若い女性だった。

 「大丈夫なんですか?」と彼女が聞いてきた。状況を簡単に説明して、警察と救急車がこちらに向かっていることを告げた。彼女は一人で車を運転してここまで来たとのことで、長野市内に住んでいるようだった。夜勤明けといっていたので、もしかしたら看護婦さんだったのかもしれない。

 そうこうしているうちに、旭日が戸隠の岩壁を赤く染めあげていた。頂にかかる雲が赤く染まり、しんと静まり返った湖面は、みごとなほどにその景色を映しこんでいた。しかし、さすがに怪我をしている女性をほったらかして写真を撮りに行くわけにもいかず、ただ、その風景を眺めるしかなかった。

 630分ごろになって、警察の車がやってきた。地元の駐在さんのようだった。彼は車の中でぐったりしている女性に名前やら連絡先やら尋ねたあと、今度は僕の名前や生年月日、住所、職業、連絡先など詳しくたずねられた。生年月日まで聞く必要があるのかと思ったが、事件関係者のプロフィールはすべて確認しておく必要があるのだろうと、聞かれるままにすべて答えた。その後、いつ、どこで、どのように彼女を保護したのかなどの状況を詳しく聞かれた。その際、車の下にあるナイフのさやのことや、道路上の血痕のことなどもきちんと説明しておいた。

 ひととり事情聴取がおわったところで、駐在さんは携帯でどこかに連絡をとっていた。「警察無線を何で使わないんだろう。」ふと疑問に思った。ジムニーのような軽四4WD車のパトカーだったので、ちゃんとした無線が装備されていなかったのかもしれない。もしくは、電話で事件の担当者と直接話したほうがはやいのかもしれない。

 その間に、ようやく救急車のサイレンの音が聞こえてきた。狭い山道のカーブの先から救急車が姿を見せたときは、正直ほっとした。手を振って救急車を誘導し、車の中に怪我をした女性がいることを告げた。頭痛と寒気がするといっていたことも付け加えておいた。

救急隊員が応急処置をおこない、包帯を傷口に巻いた後彼女は救急車に乗って去っていった。

 その後、警察の人と一緒に彼女が出てきたあたりまで行って、状況を説明したり、血痕がある場所を教えたりと実況見分に付き合うこととなった。おかしなことに、彼女が車の前に出てきたところで、どんな風に出てきたのか再現してくれといわれ、「なんで僕がこんなことをしないといけないんだ」と思いつつも、道の上で、両手を大きく振りながら小走りに走ってみた。刑事さんは、ふむふむとうなずきながら、「じゃあ、写真を撮るのでちょっととまってください」と言い、路上で両手を挙げて間抜けな格好で立ち尽くす僕をばしゃばしゃと写真に撮った。それがすむと、今度はナイフのさやが落ちているところに戻って、ナイフのさやを写真に撮りたいので、腰をかがめて指差しているポーズをとってほしいといわれた。僕はまたまた間抜けな臨時モデルとなって、いかにもそこに証拠が落ちているぞとでもいいたげな格好でポーズを決めて写真に収まった。

 そんなことを一通り行って、ようやく開放された。時間はすでに午前10時を回っており、けっきょく一番いいときに写真は一枚も撮れなかった。まあ、けが人をほったらかして写真をとるというわけにもいかないので、こればっかりはしょうがない。写真は撮れなくても人助けと珍しい体験をしたということで良しとしよう。

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